
3/5(水)にもイスラエル軍の一時侵攻があり、ガザで死者が出ている。ロイター通信が撮影して報道した
この写真を見ていただきたいが、犠牲になったのは生後間もない女児で、頭を撃たれて殺されている。写真で、女児の銃撃された頭部を指さしているのはガザの病院関係者で、証言では、そのときイスラエル兵の銃撃を受けて8名の負傷者が運び込まれたと語っている。イスラエル兵がこの乳児の頭に至近距離から銃弾を発射したのは間違いない。2日前から外電の記事を追いかけているが、そういう写真が多い。流れ弾に当たったとか、銃弾で血まみれになってという殺され方ではなく、子供が頭部を狙われて一発で狙撃されている。イスラエル軍がガザの子供を狙って見せしめの処刑をしているのであり、写真が報道を通じてガザの住民に告知され、彼らの憤激と憎悪をかき立てるように、意図的に子供の処刑をやっているのだ。

イスラエルの冷血で残忍で狡猾な作戦なのである。殺害された子供の写真を見せ、パレスチナ人の憤怒と復讐心を煽り、忍耐を切れさせ、彼らを報復戦争に駆り立てるように仕向けているのであり、すなわち挑発作戦の一部なのだ。挑発してハマスに攻撃を仕掛けさせ、全面戦争に持ち込むのが目的なのである。イスラエルの現在の言い分としては、ハマスのロケット弾攻撃による被害に対する報復だが、しかし、この報復処刑の様相は、その性格と規模と残酷さにおいて、ナチスがゲットーでユダヤ人に対して行ったものと酷似している。ライスの中東訪問は2日間だけの「和平」を実現した。ハマスをテロリストと断定するブッシュ政権は、ハマスが地上から消滅するか、パレスチナにおける政治的影響力を根絶させるまで妥協をしない方針で、イスラエルのガザ占領作戦に干渉する気配は微塵も見られない。本格的な戦争は避けられない。

イスラエルとは何かを考えるとき、念頭に思い浮かぶ一つのアナロジーがある。それはイスラエルと靖国神社の思想的位相の同一性という着想である。両者はよく似ている。戦後世界における鬼胎として相似形の存在のように見える。先に靖国神社について言うと、私はかねがね、靖国神社は日本国憲法の不倶戴天の敵であり、日本国憲法は他のあらゆる思想を「思想の自由」において認めながら、唯一、靖国神社とその思想だけは、この日本国の中で生存と居住と許さない絶対悪の存在として指定し拒絶していた、と考えてきた。この見方は日本国憲法の客観認識として間違っていないだろう。日本国憲法は全ての思想を例外なく「思想の自由」の下に許容しているわけではない。日本国憲法の「思想の自由」は、決してフラットで機械的な無条件な「思想の自由」ではない。日本国憲法は、この国の全ての思想にめくら判で「思想の自由」を与えてはいない。制限がある。

許していない思想がある。排除している思想がある。それが靖国神社の思想であり、日本を戦争に導いた戦争賛美の思想である。それは前文に書かれていて、9条の規定で具体化されている。日本国憲法の体制の中で靖国神社は異端の存在であり、本来的に反体制の不気味な存在であり、日本国憲法の体制下では生息できない存在として異彩を放ち、日本国憲法を否定し、その体制(平和体制)を転覆させる機会を窺い続けてきた。そして戦後60年経ち、日本人の心は日本国憲法から離れ、戦争の記憶と不戦の宣誓を忘却し、平和体制に倦み飽き、靖国神社の思想が堂々とメインストリームの位置に復活する時代となった。現在、国会議員の構成比において、靖国神社の思想の陣営が過半数を超え、3分の2に迫る。平和憲法の思想の陣営は1割に満たない。逆転した。平和憲法の体制は、体制としては表面上継続しているものの、内実は形骸化して、政治や教育には反映されていない。

同様に、戦後世界の平和体制を担ってきたのは国連と国連憲章だが、イスラエルは国連の戦後平和体制における鬼胎的存在で、最初から国連憲章を無視し、国連決議を無視し続けてきた。建国から現在まで、イスラエルという国は国連平和レジームに反逆する異端児であり続けている。原理的に国連憲章と相容れない。イスラエルにおいて、国連憲章は真理でも規範でも何でもなく、真理と規範は律法(旧約聖書)のみであり、その古代以来のエスノセントリズムは聊かの揺るぎも疑いもなく、近代市民社会の市民間の関係を国家間の関係に擬して摘要した国連憲章など何の意味も価値も認めない。イスラエルの国家原理は、食うか食われるかの弱肉強食の古代国家の経験と観念に基礎づけられていて、すなわち暴力のみが正当性の根拠となる。武力で勝利すれば正義。相手を殺せば勝利。殺せば奪える立場を得る。まさに古代そのもの。他から見れば残虐非道な違法行為も、ヤハウェの神が許し給うた正義の行いになる。

イスラエルは建国した1947年から1974年の間に周辺諸国と四度にわたって大きな戦争をし、その後もパレスチナやレバノンとの間で戦争状態にあり、幾度も大規模な侵攻と占領と殺戮を繰り返している。遠くシリアやイラクやイランにまで空爆で急襲している。これほど戦争ばかりしている国は戦後世界では他にない。世界の警察を自任して侵略戦争している米国だけだ。国連の平和体制を戦後日本の憲法体制とするならば、イスラエルはまさに靖国神社そのものである。このアナロジーの図式をもう少し展開しよう。国連憲章が平和憲法である。イスラエルが靖国神社である。そして、平和憲法と同じように国連憲章も形骸化している。9条と同じように国連が名ばかりの紙の上の存在になっている。しかし、そこにはそうせしめている媒介環がある。逆転と倒錯を推進している政治権力がある。平和憲法を形骸化して靖国神社の思想と体制を復活させているのは自民党。国連を形骸化してイスラエルの無法な中東武力支配を容認し保護しているのは米国。

アナロジーは無限に繋がり、説得的な政治的思想的構図に像を結ぶ。国連憲章を根本から否定するエスノセントリズムの律法(旧約聖書)の存在が靖国神社の方にもある。言うまでもなく、それは教育勅語だ。国連体制とイスラエルは9条体制と靖国神社、国連憲章と旧約聖書は平和憲法と教育勅語、逆転と倒錯の媒介環としての米国権力と自民党権力。世界の中にも矛盾と不条理はある。新世紀に入って以降、世界でも日本でも逆転と倒錯は支配的な新体制として固定化された観があり、日本では総理大臣と閣僚が靖国神社に参拝し、教育基本法を改正した。靖国神社の思想は自民党の精神的支柱になったと言っても過言ではなく、青少年の思想教育と歴史教育は、靖国神社思想の漫画本が標準教科書となって一手に引き受けている。世界では米国がイスラエル化し、先制核攻撃で世界を脅迫する暴力による一国支配を世界に押しつける時代となった。パレスチナの現実は、国連と国連憲章の形骸化をあらわし、世界の人間の心が国連体制から離れている真実が示されている。

だから何が言いたいのか。他人事ではないと言いたいのだ。日本国民が平和憲法への帰依と忠誠を裏切ったように、世界人類が国連憲章を裏切っている。その遵守を放棄している。パレスチナの問題は他人事ではない。われわれ自身の思想的問題だ。倒錯した世界を認めて、われわれは自己欺瞞の中で生きている。パレスチナの抵抗はテロとされる。イスラエルの国家テロは正当防衛とされる。テロが正当防衛で、正当防衛がテロとされる。国連憲章と世界人権宣言の法の支配はパレスチナとイスラエルには及ばない。法と理性の及ばぬ古代的な暗黒世界を残している。しかも、そこを毎日のように西側世界のマスコミがリアルタイムに取材撮影して世界に画像と映像を配信しながら。まるで、飢えさせたライオンの群れの中に一頭のシマウマを放り与え、一部始終を客に見せている中国の動物園のショーのように。世界にとって、国連にとって、欧州にとって、そこは動物園なのだ。パレスチナに住んでいるのは人間ではないのだ。弱くて、貧しくて、運が悪い生きものなのだ。仲間にも見捨てられた哀れな生きものなのだ。
絶滅種として観察してやればよいのだ。国連憲章も、世界人権宣言も、そんなものは子供の学校の教科書で教える話だ。青二才の書生論議だ。日本国憲法と同じだ。