昨日のブログの
記事が、全体として中国政府寄りの立場に過ぎるのではないかという批判については、甘んじてそれを受けなければならないかも知れない。人権や自由と民主主義の普遍的価値に立脚した視点が弱いという指摘も少なからず当を得ている。けれども、チベット問題を論じるということは、中国問題を論じるということであり、それは日中関係の政治を論ずるということである。われわれには所与の日本の政治的現実がある。現実の歪んで爛れたイデオロギー環境と思想空間がある。そうした現実から離れたチベット論はあり得ない。社会科学は現実の問題を解決するための理論を提供するものであり、常に現実を変革する態度を失ってはならず、そこから切離された、言わば宙に浮いた普遍的真理や抽象的命題の一般論を無前提無媒介に直接的に対象分析に適用する態度は社会科学的とは言えない。ファナティックな右翼のイデオロギーの増長充満と跳梁跋扈という日本の思想的現実を意識することなくチベット問題を論じることはできない。
民族問題が国家のアキレス腱であるという政治的事情は、誰よりも中国政府が理解している事実であり、ソビエトの崩壊はバルト三国の連邦からの離脱が引き金となって始まった。民族問題の舵取りを誤ったら国家は即座に崩壊する。中国の場合、それは
版図の西側に位置して領土全体の約4割を占めるウィグルとチベットの問題である。この共和国西半を大きく占める二自治区が分離独立した場合、余波はすぐに内蒙古自治区に及んで外蒙古であるモンゴル共和国との統合へと動き、広大な面積の三自治区が中華人民共和国から分離独立する事態に直面する。中国の領土は現在の半分以下の面積になり、東西に横長の版図は南北に縦長の版図と化して、アジア大陸の東岸の縁に押し詰められる。16世紀の
明の領土が首から下の胴体となり、頭部として山海関以北の東北地方の東半分がくっついたような奇形な版図が出来上がる。想像するだけで中国人にとっては屈辱の図だろう。現在の青海省は全域が
チベットの領土となり、四川省や甘粛省も削り取られる。
そうなると、
中国の領土は現在の面積の5割を切って4割弱に縮小する。民族問題の舵取りを誤れば一瞬でそうした破局が現実のものになる。それが中国にとってのソ連崩壊の教訓だろう。その大きな三自治区(三民族)の中で、最も要注意でシリアスなのがチベットであり、まさにアキレス腱そのものと言える。他の自治区と比較してチベットの問題が深刻なのには二つの理由がある。チベットの場合、宗教的最高権威であるダライ・ラマ14世という民族統合のシンボルが存在して、国外に亡命政府を作り、英米など西側世界から支援されている。そういう自治区は他にない。これが一つ。もう一つは、関連するが、他地域と比較して弾圧と流血の歴史の深刻さがある。1950年の軍事制圧と1959年の動乱、1989年の暴動の過程で多数のチベット人が虐殺されてきた。独立運動の激しさとそれに対する武力鎮圧の酷烈さにおいても、他の自治区と較べて著しい。中国が弱体化したり崩壊の兆しが見えれば、チベットはすぐにダライ・ラマ14世を帰国させて独立し、中国とは絶対に連邦を組むことはないだろう。
私は、ソ連の崩壊のときは、それを歓迎して見つめる立場だった。崩壊して当然であり、人類の歴史に対して犯した罪の報いであると傍観していた。だが、中国については同じ見方をしない。崩壊を歓迎しない。それは何故か。確かに犯した罪の深さの点では、毛沢東もスターリンと同じほどの罪業があると言えるかも知れず、大躍進から文革までの中国共産党の失政と弾圧による犠牲者は、ソ連共産党の農業集団化と粛清によって齎された犠牲者の規模と匹敵するかも知れない。その検証は必要だろう。しかし、崩壊直前のソ連と現在の中国では決定的に異なる状況があり、それは経済と生活である。80年代後半のソ連は計画経済が完全に破綻してマイナス成長に次ぐマイナス成長が続き、それでなくても国民に十分な食料や生活資材やエネルギーを供給できない状態だったのが、生産活動が麻痺し、国民の多数が餓死と凍死の直前まで追い詰められた事実があった。社会主義を放棄して市場経済に移行しなければ、国民が餓死と凍死に直面する状況があった。そのとき社会主義の放棄はソ連の解体と崩壊を意味した。
現在の中国は当時のソ連と同じ状況ではない。新自由主義経済の中で国民は熾烈な格差に喘ぎ、日本と同様、貧困層は生きる最低限度の生活を余儀なくされているが、しかし経済全体は繁栄を謳歌し、中国は「世界の工場」として経済大国を実現した。ソ連末期の絶望の経済状態とは全く違う。人が将来の希望を持つことができる。そして、ここからが私のオリジナルな見解だが、実際のところ、中華人民共和国の崩壊が起こったとき、中国の庶民一般の生活や権利は現在より向上すると言えるだろうか。私はそうは思わない。そして、中国人自身も私と同じように観念しているのではないかと推測している。現在より悪くなる可能性の方が高い。中国人はそのことを本能的に察知しているのだ。やや突飛な表現に聞こえるだろうし、そこは読者の想像力に期待したいが、共産党支配の中華人民共和国の体制は、一般の中国人にとっては生きるセーフティネットになっているはずだ。この体制が崩壊すると中国民衆のセーフティネットが破れる。このことは、実は現在の日本国憲法が、特に9条と25条が、日本人の生活の最低限のセーフティネットとして機能している事実と同じだ。
愚かなわれわれは、日本国憲法が日本国民の生活を支える最後の砦であり、すなわちセーフティネットである社会科学的事実に自覚できていない。これが失われたとき、日本人の最下層の人々の生活は中国人の下層の人々の生活と同じになる。具体的に説明しよう。たとえば三自治区が分離独立する。漢民族の23省はどうなるか。必ず混乱が生じる。共産党支配は崩れるが、一国を統治する安定的な権力はできない。すなわち分裂する。華北、華南、福建と広東、旧満州、どれほど権力が分裂するか想定もできない。中国の1省は人口が1億人を超える。面積も大きい。経済の生産力もある。日本や韓国ほどのサイズの国家が10個できてもおかしくない。仮に分裂したとして、統一国家でもいいが、その国家が、欧州のような自由と民主主義が保障された市民社会として実現され、中国人一般が現在の水準以上の生活と権利を手にすることができるだろうか。私は悲観的であり、恐らく中国人一般も、そうした仮定想像に対して悲観的なのだ。強権的な中央政府の支配と統制がなければ、この国の乱世の強者は際限なく弱者に襲いかかって収奪する。権利を奪う。法治国家ができない。梟雄が支配する。
現在の中国の指導部の思想は、すなわち鄧小平路線と呼ばれるものである。これは具体的には、政治における共産党支配と経済における新自由主義を意味する。二つには意味がある。それは中国の指導部だけでなく一般民衆もそうだが、中国にはどうしても避けなければならない二つの社会的事態がある。それは絶対悪としての過去の災禍である。一つはアヘン戦争敗北から20世紀前半までの主権なき泥沼の半植民地状態。国民が麻薬中毒になり、女たちは纏足され、軍閥が割拠し、日本の軍事侵略を招いた恥辱と鬱屈と錯乱の時代。もう一つは1960年代後半から1970年代前半までの文化大革命の時代。擬似的原始共産制の極貧の中で、無能者が有能者を訴追迫害して無政府状態になり、国家が機能不全に陥った悪夢の時代。嫉妬と密告と愚劣が支配する暗黒社会。この二つの社会だけは絶対に再現してはならない。どのようなことがあっても、二度と半植民地時代の停頓堕落と文化大革命の混乱悪夢だけは避けなければならない。それこそが、その失敗の経験と記憶こそが鄧小平路線という名の思想(共産党支配と新自由主義のミックス)の基盤なのである。
それは単に中国指導部の思想だけではない。中国の一般民衆が支持している。中国の一般民衆こそ、アヘン時代の無秩序と文革時代の混乱の被害者なのだ。彼らが鄧小平路線を支持するのは歴史的な理由がある。二度と過ちを繰り返さない、不幸な時代には戻らないという決意の意味において、中国の鄧小平路線は日本の日本国憲法と同じなのである。国民の歴史的災禍の経験が立国精神の基礎になっている。だから、鄧小平路線と日本国憲法は、それぞれ両国の一般民衆にとってはセーフティネットなのだ。民族的悲劇を繰り返さない歯止めなのである。そのことの意味をブログの読者は想像力で確認していただきたい。いや、そんなことはない、共産党政権が崩壊すれば、中国は日本や米国のような自由で民主主義的な国になる、と、そう思う人間は、自分のことを考えて欲しい。日本人の生活と権利の現実を考えて欲しい。日本国憲法がなくなればどうなるか。憲法の体制が失われれば、われわれはどういう社会空間の中で生きているか。そのことを想像するのは難しいことではない。労働基準法はなくなる。健康保険証もなくなる。朝日新聞の紙面は産経新聞と同じになっている。
NHKは日本テレビになっている。国政選挙で比例区はなくなっている。想像するのが難しいと思う人間は、例えば、安倍晋三や麻生太郎が日本国憲法が廃止された後にどのような政治を行っているかを思い浮かべてみればいい。普通の市民にとって、それは悪夢であり、恐怖であり、身の毛もよだつような地獄図である。中国人にとっても同じなのだ。あの過去の悲劇と惨苦の時代には戻りたくはないのだ。よく考えて欲しい。われわれは日本国憲法の政治体制を失いつつある。日本国憲法の社会空間を失いつつある。失うときは簡単に失うのだ。あれほど固い決意で日本国憲法の体制と社会を守ろうと誓ったのにも拘らず、今、その誓いの下に立っているのは天皇陛下と皇后陛下だけである。日本人は平和憲法体制から離れつつある。この社会体制から離れた先に何があるのか。それは幸福なのか不幸なのか。答えは決まっている。日本国憲法を失った先にある社会は、民主党の
憲法提言が言うような脱構築的な擬似的未来社会ではない。そこに待っているのは、大日本帝国憲法と教育勅語の世界である。1945年以前の政治と経済だ。寄生地主と貧農小作が復活する香しいほど完璧な新自由主義の格差社会だ。
鄧小平路線の中国の体制(社会主義市場経済)は、二度の悲劇に中国人を戻さない歯止めなのである。前提として、中国に内在して、まずその事実をわれわれは確認する必要がある。
【今日も続けて懐かしの1曲】
昨日、竹下景子が司会するテレビ東京のなつメロ番組で放送していた。
この歌のYouTubeは何本かあるけれど、総集編らしくていいのを1本。
やはり、この曲がキャンディーズの曲の中では一番いい。
作詞は阿木燿子。素晴らしい。天才だね。
キャンディーズの存在の大きさと阿木燿子の天才。
夜ヒット版映像のダンスも可愛い。今の歌手と違ってキュートでフェミニン。
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この頃の日本の春の季節は最高だった。
I LOVE CANDIES FOREVER !