校庭のテントの下で「反貧困」のグッズを販売していた主催者メンバーの表情がとてもよくて、そのことをもう一度書いておきたい。昨年暮れにNHKの『
ワーキングプアⅢ』を見たときの感動が再び涌き上がってきた。500円のハンドタオルを買い、千円札を出して500円のお釣りを受け取ったのだが、そのときの若い女性の真剣な眼差しが、震えるような祈りと願いを漂わせたもので、忘れられない印象を刻みつけたからである。日本人は中産階級の生き方をしているときが一番美しい。その中産階級としての生き方を剥奪された現在の日本人がある。けれども、人間は奪われたものを回復しようとしたとき、その本来の美しさを人間性として回復する。奪い返すものは人間としての尊厳。テントの下でボランティアで働いていた若いメンバーの姿に中産階級の日本人の美しさが神々しく甦っていた。人間の尊厳に触れる思いがした。
「反貧困フェスタ2008」のイベントを支えた若いスタッフの中に、きっと楽な生活を送っている人間は一人もいないのだ。まさに美しい日本。神田一橋中学校の小さな空間に甦って輝いた美しい日本が、この国の地上の全土に広がることを望んでやまない。願いと祈りはみな同じ。心の中で祈り願うことは皆同じなのであり、私は催しの成功に参加者として貢献しようとして、電車でわざわざ都心まで足を運んだのだ。シンポジウムの議論を聞きたくて神田まで出かけたのではなかった。祈りと願い、その裏側には深い嘆きと悲しみがある。電流が走るように伝わる祈りと願いを確認することができてよかった。そこは心を震わせる祈りと願いの空間だった。本当は、ネットの空間もそのようにしなければいけないのだった。ネットの中に、格差社会を超え、失われた日本人の尊厳を取り戻す祈りと願いの空間を作らなければいけないのだった。
ワーキングプアや貧困や格差に関する本が夥しく出版されるようになったのは、この2年ほどのことである。最近はまともな論調のものが多くなったが、当初はそうではなかった。格差社会の現実を是認するか、格差拡大(貧困拡大)の成り行きを冷淡に見る学者や評論家の本が多く、フリーターを適応力のない落伍者として見下し突き放した視線の本が多かった。ネットの中も同じだった。(2ちゃんねる掲示板を中心とする)ネットの中のフリーターやニートへの蔑みと罵倒は甚だしく、極端な自己責任論一色で、怠惰で没落した人間に生活保護は必要なしという声が圧倒的だった。新自由主義を批判するサイトなど一つもなかった。堀江貴文が王様の時代だった。反貧困ネットワークで活躍している個々の活動経歴は古いが、反貧困ネットワークが正式に発足したのは昨年の10月である。NHKの『ワーキングプア』も第1回の放送は2006年の7月だった。そのことを考えれば、2005年10月の「STOP THE KOIZUMI」は実に早い動きだったと言える。
STKの運動の綱領的な文章と言える
記事を読み返すと、そこで提起している問題は二つあって、一つは格差社会を日々惹起拡大せしめている構造改革の政策とイデオロギー、すなわち小泉政権の遂行する新自由主義に対する根底からの批判であり、もう一つは「改革」に抵抗する政策と世論を異端化して完全に閉め出し、日本の社会を「改革」の全体主義社会に変えたマスコミの暴挙に対する正面からの怒りと挑戦だった。「改革」批判と「改革ファシズム」のマスコミ批判、それが「STOP THE KOIZUMI」の思想の二本柱で、改革権力とマスコミ資本が支配することのできないネット世界で批判と暴露の言論空間を拡充させようというのが運動の目的だった。STKがブログ左翼の誹謗中傷攻撃で潰されるまでの短い期間は、その方向での言論空間作りの流れができて、さらにそれが続いていれば、今日から振り返って画期的で先駆的な反格差社会のネット市民運動だったと言うことができる。実際に、当時はそれを問題にしたBLOGや記事が多かった。
派遣社員として低賃金で働いた自身の体験を綴っていたBLOGもあった。思い出せば、格差社会を渾身から告発する嘆きと祈りの響きが確かにあった。残念ながら、現在のネットの空間にはそうした祈りと願いの気配や余韻が感じられない。「STOP THE KOIZUMI」は、小泉政権から別の政権に変われば目標達成というような単純な運動ではなかったが、最近のネット世界を見ると、安倍政権が福田政権に変われば運動成功だったり、福田政権を民主党の小沢政権に変えることを目標にして血眼になっているように見える。だから、その類のブロガーの議論は、ほとんど民主党の日常の政治宣伝と何も変わらなくなり、毎日の政局で菅直人や小沢一郎が福田首相を批判して新聞記事になっている言説がそのまま諸BLOGの主張になっている。自公政権を民主党政権に変えるブロガー運動が主流として展開され、それに反発する共産党ブロガーが共産党の政策の正当性を絶叫するという構図になっている。党派で分かれるようになり、巷の不毛で殺伐とした政治空間と何も変わらなくなった。
格差や貧困に対する真摯で透徹した言論は全く見られなくなり、政治オタクが昔の掲示板の代わりにBLOGでスイーピングな床屋政談を吐き、床屋政談の延長で退屈凌ぎの誹謗中傷のデスマッチが興行される程度になった。落ちぶれてしまった。だが、あの当時と較べればネットの内も外も論調は少なからず変わっている。自己責任論が露骨に幅を利かす言論環境ではなくなった。政策的行政的にはまだ新自由主義が厳しく続いているし、社会保障制度が削られる危機と被害は甚だしくなっているが、少なくともイデオロギー的には、自己責任論が絶対的な真理として言論界を制圧している状況にはない。マスコミでの「改革」連呼のボルテージも嘗ての大きさはない。2006年1月の堀江貴文の逮捕が大きな転機だった。2006年7月からのNHKの『
ワーキングプア』の放送が大きく影響した。2007年7月の参院選の結果が大きく空気を変えた。ジュンク堂書店にはワーキングプア関連の本がひしめくように並び、それらは新自由主義(構造改革と規制緩和)を批判する立場と内容のものが圧倒的に多い。
連合は現在でも「STOP THE 格差社会」の標語を堅持している。さて、
前回の記事でシンポジウムで貧困をなくす展望が出なかったと書いたが、河添誠だったか、少し運動の今後の展望について語っていた。それによると、これから反貧困ネットワークを地方に展開し、現在の平和運動のように、地域地域で集会などの活動ができるように広げて行くという話だった。なるほど、それは悪くない。運動論として理に適った自然な方向だろう。例えば、日雇派遣労働者は東京だけでなく地方にも無数にいる。だが、それを聞いて少し思ったのは、一体それでは何年かけて労働者派遣法を1999年以前の原状に戻すのか、日本の労働法制や社会保障を新自由主義の規制緩和以前の水準に戻すのかという素朴な疑問だった。原水禁運動とか9条の会のような運動が想定されているのだろうか。それに関連して、生田武志の講演会のある体育館に入る前の校舎2階の廊下で「週刊金曜日」の昨年
12/21号を配布されたが、その記事の中に気になる部分があった。編集長の北村肇が雨宮処凛と対談して次のように言っている。
「フリーターは現在およそ400万人、非正規労働者は1600万人と言われています。貧困は構造としてつくられているので、部分部分で勝利しても、構造そのものを変革していかなければ解決にならないし、構造そのものを変革する運動につなげていく必要がありますね。 (中略) 構造そのものを変えるには10年-20年かかりますが、まずは個々の法律を変えるところからですね。 (P.15)」。この議論は、格差(貧困)をどうなくするかという展望の問題と関わると思うが、北村肇が言うところの「構造」とは何で、「構造を変革する」とはどういうことだろうか。構造を変えるのには20年かかるが、個々の法律はもっと早く変えられると言うのは、具体的には何を根拠として言っているのだろうか。政権が変わるか、両院の勢力が大きく変わらなければ派遣法を始めとする法律は変えられない。法律で規制を元に戻すことはできない。政治が20年間変わらなければ、法律は変わるはずもなく、逆にどんどん経営側に都合よく法改正が進む。逆に、政治が変われば、新自由主義が権力を失えば、すぐに国会で法律を変えることができる。
構造を変えるとはどういうことか。構造はどうやって変えるのか。「構造を変える」ことを竹中平蔵はやったが、竹中平蔵は「構造改革」に10年も20年もかけなかった。構造は法律を変えて変えるのである。他にはない。労働者派遣法や最低賃金法や生活保護法こそが構造を構成する。竹中平蔵は法律と行政を変えることで構造改革を実行実現した。そのために権力が必要だった。われわれも同じではないか。政治こそが全てであり、新自由主義の構造を福祉国家の構造に転換するために政治権力が必要なのである。地方に運動を広げることも大事だが、福祉国家の多数派をどう形成するかの政治戦略がなければ、法律を変える展望は開けない。その目標達成に10年も20年もかけてはいけない。運動そのものが目的ではないのだ。
【今日の一曲】
中孝介 「花」 。 いい歌だ。 日本の音楽はいい。
大地を強く踏みしめて、それぞれの花、こころに宿す。
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