4/10の欧州議会でチベット問題に関して中国に対する非難決議が採択されることになり、4/9には英国首相が北京五輪開催式に欠席すると声明を
発表した。ブラウン首相はこれまで出席する意向を表明していたが、一転して欠席へと方針が転換された。ロンドンとパリでの聖火リレーの騒動と欧州議会の動きが影響を与えている。欧州議会は、中国がダライラマ14世と対話を再開しない場合、加盟国首脳に開会式不参加の統一行動を呼びかける予定と
報じられており、この問題で重大な一歩を踏み出した感がある。米国のブッシュ大統領は、現在のところは出席の意思を表明しているが、欧州諸国首脳が全て欠席の状況となれば、国内世論に従って判断を切り替えるに違いない。欧州の主導で中国が世界から孤立する局面が固まりつつある。私から見て、この欧州の対応は「五輪の政治利用」の極致であり、北京五輪を人質にして中国の内政を動かそうとする卑劣で異常な外交に見える。
このようなやり方が本当にチベット問題を平和的な解決の方向に導くだろうか。中国政府が簡単にダライ・ラマ14世と対話する方向へ政策転換するとは到底思えない。それは圧力に屈することになる。中国人にとっては外圧への屈服になる。それはアヘン戦争以降の屈辱の歴史を思い起こすことである。政府より国民が許さないだろう。国内では政府のチベット政策は国民に強く支持されている。国内世論は欧米諸国の圧力に反発して、チベットに対してさらに強硬になり、政府がチベットに対して融和的方向へ路線転換することを許さない政治環境が固まる。外圧が強く激しくなればなるほど国内が強硬論で纏まる。中国政府にとって、北京五輪の成功は何にも替えがたい最優先の国益だが、国家の破滅や解体と引き換えられる国益や政策などない。北京五輪を捨ててでも中華人民共和国の国家体制の維持を選ぶだろう。
1989年の天安門事件のときと同じように。あのときも現在と少し状況が似ていて、民主化や民族自治の要求に柔軟に妥協しようとする動きが党内にあった。改革開放を進めるためにも国際社会に認められるオープンな方向へ中国を向かわせようという動きがあり、趙紫陽がそれを代表していた。だが、最終的には鄧小平の武断路線で押し切って現在に至る。現在の党中央にとっては、1989年の鄧小平の決断(武力鎮圧)は成功の教訓であり、国家経営においては下からの民主化や民族自治の要求に簡単に妥協してはならないという鉄則が固まっている。偉大な鄧小平の路線や教訓を転換させられる大型のカリスマは、今の中国共産党の中にはいない。しかも当時と違って現在の中国は経済大国の生産力の前提を持っている。すなわち、欧州を中心とする国際社会からどれほど圧力がかかっても、それに応じる形でのチベット政策の変更はないだろう。
そう考えると、欧州議会の対中国非難決議の政治は、人権の普遍的理念を掲げた正論の外交ではあるけれど、効果や結果という観点からは特に意味のあるものを導き残すようには思えない。北京五輪が終わった後、具体的にどのような顛末になるか予測できないが、少なくとも国際社会によるチベット問題の対中圧力カードはなくなり、中国政府のフリーハンド状態となる。そのときチベット人の人権や自治はどうなるのだろうか。アジアの人間である私の視線からは、今度の欧州の人権政治と対中非難決議は少し度が過ぎている。嘗ての、90年代後半の米国のグローバリズム路線の独善と暴走を彷彿させるようで危惧を感じる。欧州はいまトレンドで、環境問題でスタンダードとイチシアティブを提供発信する立場となり、カーボン排出取引市場でドルに代わる次の世界金融の支配者の地位を狙いつつある。<帝国>の支配が終焉した後の次の主役と目されている。
福祉国家のイデーを現実のものにして新自由主義の没落を証した。それはいい。だが、世界史における復活と興隆の気分が、欧州をやや驕慢にさせてはいないか。米国新自由主義グローバリズムの唯我独尊ウィルスを体内のどこかに感染させて行動してはいないか。五輪も一つの「スタンダード」であり、W杯と並んで世界をドライブする「イチシアティブ」である。そこに世界中の関心が集まり、世界中の人を動かす。非政治的権力ながら大きな文化的権力として「標準」に準拠する参加者を支配する。これまで欧州はスタンダードやイチシアティブの権力行使について、米国と比較して抑制的であり、米国ほど露骨に権力者の立場を利用して恣意的にふるまう印象はなかった。そのことが欧州の理性へ信頼を集めていた。そしてまた、五輪は欧州の重要な歴史的文化的伝統である。北京五輪を失敗に追い込んだとき、それは欧州の文化的伝統に対して自ら傷をつけることにはならないだろうか。
五輪は本来的に政治の道具であり、中国そのものが五輪を政治的に利用しているのだから、欧州や日本が五輪を政治に利用してチベット問題の解決に使っても何も問題はないという意見がある。ネット右翼の論調に多く見られる。一方で、五輪が政治に利用され政治に翻弄された過去の悪弊を思い出して、五輪が政治から切断され独立する文化的理念に多くの者が積極的意義を見出している。政治と切り離せない関係にある文化を、しかし政治と癒着させずに、文化の本来の姿を守り実現させることこそが、それができる指導者と国民がいる国こそを先進国と言うのではないのだろうか。文化を政治に安易に癒着させ、政治に利用するのは発展途上国の指導者である。先進国が発展途上国のレベルに落ちてはいけないのであって、文化を政治に癒着させない倫理こそが先進国の条件ではないのか。文化を政治に癒着させる誘惑を禁欲する倫理。そうした禁欲倫理の保持こそが先進国の条件のはずだ。
欧州はその禁欲凛理のお手本を示せる先進国だった。欧州には政治的禁欲の姿を見せて欲しかった。もとより五輪と政治を完全に分離することは難しい。しかし、問題なのはギリギリまで両者を峻別して、五輪を政治の泥で汚さぬように努める内面の緊張感なのである。
【読者のメールによるコメント】
Name ふぉん日本に来て10年目、以前「人民日報」だけは洗脳ばかりしていると思いました。
いま日本を含む西側のマスメディアのほうは、はるかに大きな規模で自国民を洗脳していることがわかりました。自由民主平和友好の「美しい」スローガンの傍らに、悪意を満ちた偏向報道で互いに憎悪を人々の心に埋め込みました。といっても、洗脳教育の方針は大きな違いがあります。少なくとも、人民日報は「都合的に良い善意的な」メッセージを人々に信じ込ませています。
真実(truth)はだれから教わられるものではありません、特権者はいつも偽りの真実を大量生産しています。事実(facts)だけは歪曲できません、必ずこころの開いた人間に届けます。
Stop Hijack on mass media, let truth reach all hearts!
沈黙が事実を黙殺しないように、みなさん、オリンピックを応援しましょう。長野聖火リレーを応援しましょう。
【今日の一曲】
懐かしい1985年の USA FOR AFRICA の We Are The World」 を。
何回聴いても本当に素晴らしい。米国の底力を感じる偉大な一曲。
曲を書いたのはマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチー。
タクトを振っているのはクィンシー・ジョーンズ。
当時の、そして往年のビッグスターが全員集合でパートとコーラスを。
これをビシッと決められるのがアメリカの強さと凄さ。
このブルース・スプリングスティーンとスティービー・ワンダーの掛け合い、
泣けるよね。