
善光寺の辞退が苦渋の決断であった事実は理解できるし同情もできるが、しかし、今回の政治的に過ぎる判断を支持はできない。善光寺は長野のシンボルであり、宗教的存在である以上にパブリックな市民的公共的性格の存在であり、長野市と一体になって引き受けた公的任務を政治的問題を理由に放棄して欲しくなかった。何かの記事で読んだが、星野仙一がその問題に少し関連すると思われる発言をしていて、「(正確に覚えてないが)国家の任務だから聖火リレーを引き受ける」のだという発言をしている。国政選挙の際には憚ることなく保守政党への応援を口にする星野仙一が、今度のチベット問題に関して聖火リレーの役割担当に積極的であるはずがない。率直な思想信条としては聖火ランナーを辞退したいと思うのが当然だろう。しかし星野仙一はそれを辞退せず、長野での北京五輪祝賀行事を成功させる立場を務めている。

パブリックな使命を引き受けて責任を全うするとはそういう事なのではないか。私的な思想信条よりも公的立場を優先させて行動する。善光寺の辞退によって長野市は混乱して収拾に追われている。五輪委や警備当局も一から準備計画を立て直さなくてはならない。日本の警察は、今回、どれほど抗議団体が押し寄せてもリレーに支障をきたさないように万全の態勢を敷き、欧州や米国のような無様を世界に見せないように対策を練っていた。日本の実行委と警備当局の優秀さを世界に示し、政治と五輪の峻別の倫理的意味を世界に知らしめる絶好の機会だった。聖火リレー行事は善光寺だけがやるのではない。オール長野、オール日本のチームワークで成功させるのである。各自が我慢をしながら、自分を抑えながら、パブリックイベントのために団結するのである。長野のシンボルでありながら、長野市や警備当局に迷惑をかけるという発想はなかったのだろうか。

意味づけの問題について考えたい。善光寺が聖火リレー出発式会場の辞退を発表したのは三日前の4月19日である。その日の夜のテレビのニュース映像では、「辞退を残念に思う」という失望の声が市民において圧倒的に多かった。「辞退を理解する」とか「支持する」と述べた市民の声はほとんど聞かれなかった。このとき、市民の感想のレベルには政治的判断は全くなく、聖火リレーという国際的な祝賀式典に長野のシンボルである善光寺が消えたことへの意外さと残念さがあっただけである。それから三日経った今日、仮に世論調査をしてみれば、恐らく「善光寺の辞退を支持する」という意見が圧倒的に多くなるだろう。私のように「支持しない」者は少数派にとどまると思われる。それは三日間の間にマスコミを通じて政治的な意味づけ(=刷り込み)が強力に与えられたからであり、さらにそれを補強する「落書き事件」の報道がなされたからである。善光寺の判断は「意外」でも「残念」でもなくなった。

政治的意味づけは左右から行われている。右からのものは石原慎太郎や宮崎哲哉や勝谷誠彦によって与えられている。これら極右の反中反共プロパガンダについては言うべきにもあらずで、論評する必要もないだろう。問題は左からのもので、4/20のTBS「サンデーモーニング」の生放送で江川紹子から与えられた。正確に一言一句覚えていないが、善光寺の辞退を英断であると絶賛、「日本の政治家たちが中国に遠慮して何も言わないのを欧米のメディアは不審に思っていて、欧米でこの問題での日本への不信感が高まっていたが、善光寺が(政治家の代わりに)明確な態度を示してくれた」と言っていた。この発言の影響は小さくないはずで、右の論客からも左の論客からも善光寺支持の声が上がれば、善光寺不支持の立場はきわめて少数の例外という客観的状況が出来上がる。善光寺の「辞退」に価値判断をしていなかった多数一般は、これを契機に雪崩を打って善光寺支持の立場を明らかにする。

すなわち、政治的問題について善悪の価値判断をする観念がマスコミを通じて刷り込まれた瞬間で、ここで善光寺は政治的存在となり、そして「辞退」は(現在の日本の多数において)政治的に妥当と評価判断される行為となった。本来、善光寺は非政治的存在であって、長野のシンボルとしての歴史的文化的存在である。非政治的存在だからこそ、長野市民は「辞退」の報を最初は積極的には受け止められなかった。政治臭を感じたのである。しかし、江川紹子は善光寺の脱非政治性の行為を「欧米の常識や視線」の論理によって普遍化し、積極的に正当化し、「開かれた善光寺」という表象で巧みに合理化した。江川紹子にとって「開かれた」という表象は「欧米メディアが納得できる」という意味であり、本来、それは一方的な価値の押しつけであり、欧米以外の世界に対する無知や無視であり、傲慢と怠慢であるに過ぎない場合が多いのだが、左派と看做される江川紹子を媒介するとイデオロギー的な説得力には十分になり得る。

「感情の錬金術」という言葉がどこかにあったが、こうしてパブリックで文化的なシンボルであるはずの善光寺の逸脱的政治行為が、逸脱的とも政治的とも観念されず、イデオロギー的にクレンジングされて「常識」となり「多数世論」となるのである。番組では江川紹子の次に発言した寺島実郎が面白い解説を出していた。それは、「今度の問題を客観的に見ると政治的にダライ・ラマの一人勝ちだ」というもので、善光寺の「辞退」に対しては賛成の立場を示していたが、江川紹子のようなイデオロギー的に踏み込んだものではなく、もう少し抑制の利いた視角からの議論であり、この全体の問題を「人権」の論理で単純化して勧善懲悪的に見るのではなく、中国とチベットの間の「政治」として見る観点が出されていた。この寺島実郎の議論に関して言うと、確かにそう見えるけれど、果たして本当にそう言い切れるのかという問題を感じる。局面だけ見ればチベット側の圧勝である。局地戦の政治ではダライ・ラマ14世が大勝利を収めている。

しかし、あと三ヶ月後に北京五輪は始まる。四ヵ月後に北京五輪は終わる。その間に言うところの「対話」が実現できなければ、そして「高度の自治」を具体的に保障する両者の合意ができなければ、北京五輪後のチベットはどうなるのだろうか。もしもダライ・ラマ14世が言っている言葉が真実であるなら、すなわち「チベット人の自治と幸福のためには中国人の理解と支持が不可欠である」という主張が看板ではなくて真実であるなら、今度の暴動以降の政治は、結果的にチベット人にとってよかったと言えるだろうか。北京五輪を人質にした国際圧力の政治で「対話」を実現しても、それは本当にチベットの実力ではないし、中国政府に対する恒久的な圧力にはならない。何か「対話」や「合意」ができても、北京五輪後に反故にされる可能性は十分にあり、そのとき国際社会は現在のようにチベットを応援するとは限らない。「人質」のなくなった中国政府は強い立場に出ることができる。

日本の右翼は、単に中国共産主義体制の打倒をめざして騒ぐだけで、チベットは政治で利用する道具であり、本当にチベットの平和や幸福に責任を持っているわけではない。私は、昨日(4/20)の善光寺のスプレー落書き事件は右翼の陰謀ではないかと疑っている。中国人か中国寄りのシンパの犯行に見せかけた右翼の謀略で、その意図は善光寺の「英断」をさらに聖化し、善光寺に批判的な少数世論を異端化して圧殺することである。4/26を前に聖火リレー妨害行動を正義の行為として全面的に正当化するためである。日本中を反中反共イデオロギーが暴力的に沸騰する坩堝にして、中国の政府と国民を挑発し、二年前の「反日デモ」を再現させようと企んでいるのではないか。福田首相の後に出てくる麻生太郎に北京五輪開会式欠席、あわよくば北京五輪ボイコットまで持って行こうと考えているのではないか。陸軍参謀本部の諜報機関が上海事変を惹き起こす口実のために中国人を買収して現地で日本人僧侶を襲撃殺害させた謀略史を想起する。
日本の右翼は謀略をする。いやな予感がする。