
昨夜(4/24)の「報道ステーション」で、古館伊知郎が「
中国はチベットから手を引いて初めてオリンピックを開催する資格がある」と言い、北京五輪を成功させたければチベットを独立させろと中国に要求した。国内のチベット関連報道では最も反中国的な論調が際立っていた古館伊知郎だが、ここまで極端に過激な右翼的主張を発したのは初めてである。生放送のスタジオで安倍晋三との蜜月の関係を憚らず見せ、3年前の総選挙の際は郵政民営化と小泉改革に反対する論者の発言を乱暴に封殺してきた古館伊知郎の本性顕現の瞬間だった。古館伊知郎の政治的立場は安倍晋三そのものである。今度の発言も裏で安倍晋三が糸を引いたに違いない。朝日新聞の子会社であるテレビ朝日が、看板報道番組のメインキャスターに安倍晋三の子分格の古館伊知郎を抜擢したのは、実に意外で異常な出来事だったが、その不愉快と不道理を納得できる解は「電通」の一語でしかない。

それにしても今回の発言は、政治的に公平中立であるべき報道番組のキャスターの発言として、あまりに露骨に右翼的偏向が強く問題が多い。日本国政府の立場は、当然のことだが、チベットは中国の一部であって、3月に発生した暴動以降のチベット問題は中国の内政問題である。政権与党である自由民主党のチベット問題に対する基本的立場も同じである。中国によるチベット領有を不当であると言い、その分離と独立を支持したり応援したりしている政治家はいない。ただ例外として、安倍晋三とその周囲で魑魅魍魎な暗躍をする右翼政治家の影があり、暴動直後の3/16に安倍晋三はペマ・ギャルポを呼んで国会で会談、チベット支持の姿勢を示して産経新聞に
その記事を書かせている。安倍晋三とペマ・ギャルポとの会談に同席したのは、安倍側近で極右政治家として名を轟かせている下村博文と稲田朋美である。ダライ・ラマ14世が来日した4/10には夫人の安倍昭恵が出迎えに
参上した。

チベットが中国の一部であることは世界中の国が認め、国連で問題になったこともない。日本の国会で論議されたという話も聞かない。チベット問題について国内で情報を発信していたのは、専ら右翼の言論人や右翼の報道機関であり、私の場合は、本屋で『ゴーマニズム宣言』を立ち読みしていたら、ネタがないときは必ずと言っていいほど「中国共産党によるチベット虐殺」の政治宣伝があった。怖い形相の悪役にデフォルメされた江沢民が登場するページが続き、毎回同じマンガとコメントが載っていた。チベット問題というのは、何も話題がないときの平時の日本右翼のプロパガンダ・ネタという印象が強い。国内で民族紛争があるのは、ロシアでもチェチェン問題があり、スペインでもバスク問題があり、英国でも北アイルランド問題がある。米国のハワイでも独立運動は存在する。カナダでもケベックの問題がある。が、右翼がそれらに触れることはなく、チベット問題を一点集中して中国攻撃の材料に使い、しつこく世論喚起に努めてきた。

何より当事者のダライ・ラマ14世自身が分離や独立を求めていない。それなのに、古館伊知郎が「中国はチベットから手を引け」と一方的に分離独立承認の要求を中国に突きつけるのはどういう論理と道理だろうか。これは中国の主権侵害発言と言われても仕方なく、中国から内政干渉の挑発だと批判されても仕方ないだろう。度が過ぎている。古館伊知郎の思想が反共反中で安倍晋三と同一のイデオロギーの信奉者であったとしても、報道番組のキャスターの立場で、放送中に反中反共プロパガンダを表出するのは問題がある。公平中立を心がけて抑制に努めるのが報道者の倫理だろう。4/26を二日後に控えた古館伊知郎の発言は公共の電波を利用した右翼的扇動そのもので、現にネット右翼の巣窟である2ちゃんねる掲示板ではそれを歓迎するスレッドが立ってお祭り騒ぎになっている。古館伊知郎の扇動によって、4/26の長野での右翼の政治行動は予め公的に正当化された。長野に集結する右翼は堂々と北京五輪潰しの騒ぎを起こすことができる。

マスコミは、古館伊知郎を先頭にズルズルと北京五輪破壊の策動に加担する動きに傾斜しつつあり、今日の朝日新聞の社説でも、意味不明でしどろもどろな文章ながら、論説の立ち位置をチベット側に寄せ、長野聖火リレーを翌日に控えたタイミングで、「
中国政府がチベット自治区などで僧侶や住民を力ずくで押さえ込んでいることに黙っているわけにはいかない」と中国批判を述べている。安倍晋三が聞いたら涙を流して喜びそうな表現だ。ここではすでに、五輪を政治に利用するのはよくないとか、政治の論理を文化に介入させるのは避けるべきだなどという、3月の暴動当初には見られた一般論や慎重論は欠片もなくなってしまっている。五輪を政治に利用するのはよくないとか、北京五輪を人質にして中国の国内政策に要求を出すのは控えるべきだという常識を表明する議論は皆無になった。五輪を政治利用するのはよくないと一般論を言えば、北京五輪そのものが中国による五輪の政治利用ではないかという反論が右翼から返って来る。国威発揚の五輪は政治利用だと右翼が咆哮する。

それならば右翼に問い返すが、国威発揚で政治利用である北京五輪を認めたのは誰なのだ。共産党独裁国に五輪開催権を与えたのは誰なのだ。2001年7月に2008年の五輪開催地が投票で決定されたとき、立候補していた都市は他に4都市あった。その中には大阪とパリとトロントがあった。国際五輪委はそれらを排して北京を選んだのであり、世界の各国も北京五輪開催を支持し、世界が北京五輪の成功に向けて準備を進めてきたのではなかったのか。チベット問題を条件に付す留保はなかったはずだ。少なくとも、今年の3月の暴動事件までは北京五輪とチベット問題は何の関係もなく、両者を結びつける政治世論を醸成する報道は何も存在しなかった。それが急にチベット独立が世界の「正論」になり、北京五輪粉砕が世界の「常識」になり、中国がチベットの人権問題を解決しなければ北京五輪はボイコットするべきの声が世界の「当然」になった。一瞬の間に空気が切り替わった。人権問題や民族問題は7年前の2001年の中国にもあったが、その点については誰も何も言わない。説明しない。口を噤んでいる。

さらに続けて右翼に言いたいが、1964年に国威発揚の五輪大会をアジアで最初に開催した国はどこなのだ。あれは国威発揚の五輪ではなかったのか。北京五輪は国威発揚の政治五輪だが、東京五輪は国威発揚の五輪ではなく、非政治的な文化五輪だったとでも言うつもりなのか。1988年にアジアで二国目の五輪大会を韓国が開催したが、ソウル五輪は国威発揚の政治五輪ではなかったのか。中国の五輪開催は国家による政治利用だが、日本や韓国の五輪開催は政治利用にはならないのか。であれば、五輪の政治利用なり国威発揚の定義は何なのか。そしてさらに、右翼の大好きな石原慎太郎が誘致を企ている2016年の東京五輪は、これは国威発揚の政治五輪ではないのか。構想を提唱した石原慎太郎は、「国が元気になるため」とか「国民に夢を与えるため」などと言っていたが、この発想と目的こそまさに右翼が北京五輪を批判するときに言うところの「国威発揚」そのものではないのか。右翼の「国威発揚論」や「五輪政治利用論」はあけすけな二重基準で、北京五輪反対論の論理としても最初から破綻している。何の説得力もない。

マスコミは古館伊知郎に引き摺られて北京五輪妨害を正当化する右翼的論調へ傾斜を深めているが、ネットの中では少数ながら正常な言論が提出されていて、日本の知性と良識の所在を示す最後の拠点となっている。その一つは田中宇による「
北京五輪チベット騒動の深層」の記事で、今回の北京五輪を標的にした国際的な中国排撃運動について、背後に組織的で計画的な謀略の疑いがある点を衝いている。この見方は基本的に私と同じで、特に気になるのは、セルビアやウクライナやグルジアの「革命」(=自由化)の動きとの連動であり、米国の財団による資金支援と戦術支援の問題である。もう一つは、日刊ベリタの加治康男の記事「
点検・北京五輪開催謀略説」で、これも非常に面白い。最近、ネットの中の論調で、いわゆる「陰謀論批判」がブームになっている。長くなるので詳しくは踏み込まないが、一部左翼から始まった「911テロ陰謀説」の問題が、ネットを覆い伝わるうちに、思考態度として政治現象の背後に権力側の陰謀の存在を疑う視角を頭から拒絶したり否定したりする傾向が根づき、「陰謀論」という言葉を投げつけて相手を貶める風潮が横行している。
言わば「陰謀論」の思考停止の状況が蔓延し、「陰謀論」という言葉が水戸黄門の印籠の如き超越的な力を持ってネットの言論世界を仕切っている。「陰謀論」の言葉の投擲をディベートの武器のように錯覚利用しているネット左翼に言いたいが、「すべてを疑え」と言ったのはマルクスである。政治には必ず陰謀がある。「陰謀論」の言葉で自縄自縛したり思考停止したりするのではなく、むしろ今回の「チベット問題」の国際政治の解読において必要なのは、感性と経験の記憶を研ぎ澄まして、思考の力で国際的陰謀の全体を暴露することである。日本での「チベット問題」の政治の裏側には安倍晋三の動きがある。