長野での聖火リレーを契機に日本のマスコミの反中反共キャンペーンの奔流ががさらに激しく勢いを増している。朝日新聞は「
北京五輪百日前」と題した特集を聖火リレー翌日の4/27から4/29まで3日間組み、1面と3面の二面を使って連日大きく報道した。その報道が、紙面の使い方と言い、記事の内容と言い、実に産経新聞そっくりで、これが朝日新聞かと目を疑うものだった。この種のイデオロギッシュな特集報道は産経新聞の個性と特徴をあらわすもので、こうした独特の報道姿勢が一定の読者層を掴んで産経新聞の販売部数を支えていた。朝日新聞の産経新聞化に直面して率直に戸惑いを覚える。朝日新聞が小泉改革以来、徐々に新自由主義路線の方向へ舵を切り、日経新聞との対立軸を喪失していた状況は気づいていたが、まさかこのような、産経新聞と瓜二つの反中記事が紙面構成される日が来るとは思わなかった。記事は中国に対する露骨な敵意と警戒心が基調になっている。
私は
前の記事で、古館伊知郎の過激な反中プロパガンダについて、それを裏で指図しているのは電通だろうと睨んでいたが、どうやら親会社の朝日新聞が直々に指令して中国バッシングを煽っている疑いが強い。今日(4/30)の朝日新聞も、国際面で聖火リレー後に高まった韓国内の反中世論について大きく
紹介、論調が産経新聞ソウル支局発とフルコンパチブルになっていて驚く。同じ「事実」に対して従来の朝日新聞はこうした書き方をしなかった。だから、読者は朝日と読売と産経を読み較べて、各紙の論調の相違を踏まえながら、実際にそこで何が起きたのか自分で判断して「真実」を組み立てていたのである。イデオロギーに関わる問題に対して一歩引いて慎重だったのが朝日新聞だった。今回のチベット問題では、産経新聞も真っ青のハッスルぶりで、中国攻撃の最先鋒に立って日本の反中世論を喚起している。
前に触れたが、論説主幹の若宮啓文が筑紫哲也との対談で語っていた言葉を思い出す。
積極的に右に陣地を広げて右の読者を獲得する機会があればそうしたい。今がその機会なのだろう。新聞社としての事業の生き残りを賭けた右寄り作戦なのだ。昨夜(4/29)の「報道ステーション」では、胡錦濤訪日の際に中国が上野動物園にパンダを送る件を話題にしていたが、その報道での古館伊知郎の口ぶりは、中国のパンダ外交に対する嫌疑と牽制に満ちたもので、まるで金正日が小泉訪朝団にマツタケを土産に持たせたときの日本のメディアの反応と同じバイアスのかかったものだった。現在の「報道ステーション」の中国報道では、中国はすでに北朝鮮と同じ「敵国」になっている。中国のどのような「行為」や「事実」も、歪曲され一面的に偏向した論説が被され、ニュースに接する視聴者に中国への敵意や反感が醸成されるように仕向けられている。パンダ外交について、最初から一貫して不審と警戒の視線で報道していたのは産経新聞であり、朝日新聞やNHKが、それと歩調を同じくするという事態はあり得なかった。
4/28のテレビ朝日の「
TVタックル」では、青山繁晴と金美齢と大谷昭宏と長島昭久の四人が、張景子と王曙光の二人の中国人に罵声を浴びせて詰り倒す見苦しい映像が放送されていた。番組での張景子の議論は整理された理性的なもので、中国の少数民族政策や人権問題について中国の立場で分かりやすく事実と状況を説明し説得していたが、右翼側の連中はそれを最後まで聞こうとせず、説明が半分も終わらないうちに次々と汚い罵声を投げつけて発言を暴力的に遮っていた。張景子の説明は中国を代表したもので、それがどこまで真実と評価できるかは別にして、日本のメディアでは報道されることのない貴重な情報であり、視聴者のわれわれはその説明を聞きたいのである。欧米と日本の中国バッシングに対する中国側の反論に耳を傾けたいのだ。ところが、青山繁晴と金美齢と大谷昭宏は全く話を聞こうとせず、恐らくは張景子の反論の中身に説得力があったからだろうが、説明の途中で喚いて乱暴に張景子の口を封じた。特に酷かったのは青山繁晴で、街宣右翼より粗暴な、暴力団の恫喝の口調そのものの醜さだった。
張景子は外国の女性である。最低限の礼儀というものがあるだろう。非常識に過ぎる。青山繁晴の暴力的罵倒は非論理的で、渋谷の街宣右翼の怒号と同じで、聞く者に何の説得力も感じさせなかった。政治的効果としてはマイナスである。三宅久之や金美齢ら右翼が、持論に反対する相手を感情的に激高して罵倒する図は「TVタックル」では慣例化した演出だが、相手が外国人である場合は番組は少しは常識と節度を考えるべきではないのか。あれと同じ罵倒攻撃を米国や欧州の代表論者に対してできるのか。青山繁晴と金美齢と大谷昭宏と長島昭久の常軌を逸した罵倒攻撃は、張景子に対する侮辱にとどまらず中国に対する侮辱である。張景子は侮辱と暴言に耐え、感情を抑えて、よく理性で反論を展開していた。テレビはまた3年前の「中国の反日デモ」の報道に戻り、6年前の「北朝鮮拉致」の報道に戻りつつある。今回、私が特に思ったのは言語の問題で、張景子は日本語を流暢に話す能力を持っている。青山繁晴は日本語しかできない。張景子は青山繁晴らの悪罵を聞きながら、その意味は理解しながらも、あまりの愚劣さと粗暴さに立ち往生していたことだろう。
張景子が北京で日本語を勉強したとき、そのとき教えられる日本語は、礼儀正しい日本語で、品よく格調高い日本語が教えられるのだ。言語は文化そのものだから、一国の言語が他国で外国語として語学教育されるときは、習得者がその国と言語に尊敬の心を自然に持つように、そのように配慮されて、教育的価値を持った崇高な存在になるのである。正しい文法が教えられる。最も基準的で規範的な「国語」が教育される。われわれにとって英語がそうだった。スラングや汚い言葉使いは教室では教えられなかった。発音も米語ではなくクイーンズが尊ばれ、われわれはその二者の差異を聴き分けることができ、クイーンズの方が言語として上質であるという観念をベースに持っている。だから日本語を北京で勉強した張景子は、日本語というものを文化的に価値の高いものと思い、それは日本語と日本人への尊敬に繋がっていたはずである。怒声が飛ぶスタジオの中で、張景子は正確な日本語を話そうと懸命に努め、乱れる感情を抑えて語法に間違いのないように大脳の回路を作動させている。外国語で外国人と討論するということは、その経験のない日本人が思うほど簡単なことではない。
英語で米国人と討論するということは大変な苦行だ。知識や情報でどれほど勝っていても、言語能力で劣れば一蹴される。こちらは常に受身になる。イーブンな立場を確保できない。張景子と青山繁晴の場面を見ながら想像したのは、少し前の日米構造協議の時代の日本と米国の関係だった。会議は英語でなされる。日本語ではない。米国側の代表者は、一方的に日本は閉鎖的だと主張し、(世界標準に合わせて)開放しろだの改革しろだのを声高に主張して要求し続ける。日本側の主張は聞かない。客観的合理性や論理で劣勢になれば、卓袱台をひっくり返して喚く。「日本は閉鎖的だ」と怒声を上げる。「日本には日本の基準がある」と言っても聞く耳を持たない。結局、その「国際標準」の主張に押し切られ、ズルズルと「年次改革要望書」の求めるままに日本の法制度を変え、金融規制も資本規制も労働規制も全て変え、米資が濡れ手に粟で貪れる新自由主義のシステムに変えてしまった。交渉で粘り強く押し返すべきだったが、無論、協議に英語で出席した日本の官僚に責任があるわけではなく、米国に日本を売り渡した政権に問題がある。
中国には中国の基準がある。と、そう張景子は言っていたわけだ。中国に人権問題が存在する事実を認めながら、今後の努力で徐々に個人の権利を拡充する方向に持って行くから、中国に対して世界と日本は寛大な目で見守って欲しいと訴えていた。これは鄧小平路線の立場を外国に向かって説明するときの基本的な表現である。
日中共同声明の原点に立てば、日本人はそれを認めるべきで、中国の人権問題に対して過剰に口を挟む必要はない。中国の国民自身が現在の政治体制を認めている現実がある。基本的人権が天賦の権利で普遍的な権利であることは間違いないが、その権利は無制限なものではなく、どの国の憲法でも公共の福祉による私権の制限が認められている。そのとき、公と私、全体と個のバランスは、それぞれの国と地域の歴史と文化によって現実形態が異なるのであって、全ての国が一挙に米国のような現実になるものでもないし、なればいいというものでもない。例えばイスラムの国においては、イスラム法の原理と秩序の体系に従った人権の法理と適用がある。われわれはそれを一方的に否定できない。基本的人権は、それぞれの国民の努力と選択の何如による。
それともう一つ、張景子が中国共産党員であったとしても、そうでなかったとしても、日本のマスコミは、「TVタックル」が典型例だが、中国を代表して発言する在留中国人に対して、あまりに凶暴に中国共産党非難のイデオロギー攻撃を浴びせすぎる。中国共産党の立場の人間には人権の存在すら否定しているような恫喝と暴言がまかり通る。迫害に近い。これは、最近は少し沈静化しているが、拉致問題が起こったときの朝鮮総連と在日朝鮮人に対する差別や嫌がらせの横行と全く同じ思想的空気の下で起こっている問題であり、まさに基本的人権(思想信条の自由)に関わる問題だと言えるだろう。中国の場合、中国共産党員というのは、日本で言えば国家公務員上級職合格者のよう社会的身分の存在であって、必ずしも本人が内面的に選択した思想信条の問題ではない。本人が選択した思想信条でないものに対して、イデオロギーの歴史的過誤の責任を推し被せ、断罪して糾弾する行為は公正と言えるだろうか。人は生まれる国を選ぶことはできない。人は親を選ぶことができない。立場を背負って公的な場で発言している張景子に対して、イデオロギーを理由にした侮辱や迫害を加えるのは正視できない映像である。
暫くは、こういう右翼のイデオロギー花粉がネットとマスコミの空間を飛散、蔓延して、抗原抗体反応で憂鬱な日々が続くのだろうけれど。
【世に倦む日日の百曲巡礼】
1974年にヒットしたフランス映画『エマニエル夫人』のテーマを。
懐かしさいっぱいの音楽と映像。
いわゆるソフトコア映画として話題を呼びブームに。
美しくかわいかった主演のシルビア・クリステル、元気だろうか。
上映された当時、
「男の子と一緒に見に行った」実績を作らなければいけない市場の強迫観念があり、
その需要のおかげで、お誘いの声をかけてもらった幸運な思い出がある。
フランス映画には必ずパリの白い街が出てきて、それが何とも素敵に見えた。
この頃、中国は文化大革命の後期、韓国は朴正熙の軍事政権。
この映画の思い出を語れるのはアジアでは日本だけ。